「都のために泣かれた」   04.08   詩32:1〜11、ルカ19:37〜44

 神は、永遠に揺るがない平和を持って生きられるように、私たちのところへ訪れてくださいます。
 それは、人間によっては決して生み出すことの出来ない平安です。その神の訪れを妨げる罪や背きを
取り除かれるために、主は今、十字架へ進まれます。
 しかし、主が十字架にかかるためエルサレムの都に近づかれ時に、主は泣かれました。
 エルサレムが平和への道をわきまえていないからです。神の訪れをわきまえていないからです。  

 主が泣かれる前に、エルサレムの都を代表するといえる人々が登場しました。ファリサイ派の人々です。
彼らは、主の周りで神を讃美する人々の声を止めるように主に申し出ました。あまり大騒ぎをすると、ローマ軍が
鎮圧しに出てくると心配しました。彼らは、神を讃美すると、かえって自分たちの平和が乱されると考えていました。

 主は、一時の平和を求めて、結局は真の平和を手に出来ない人の姿を見て泣かれました。  
神を横において、一時的な目の前の平和を求める姿は、私たちと無縁のことではありません。
現実の生活の中で、神さま抜きに考えたほうがうまくいくように感じる時があります。しかしそれは、
主が泣かれるほどに悲劇なことです。そこにも神は訪れてくださり永遠のゆるがない平和を与えてくださるのに、
それを拒んで生きようとしているからです。  主は十字架にかかられます。それによって、神の訪れを邪魔するものは
一切なくなるのです。死や罪さえ邪魔できないのですから、この世の現実が邪魔することはありません。

ですから、いつでも神と共に考えてよいのです。さまざまなこの世の現実に直面しているときも、一時的な平和に
心奪われなくとも良いのです。  神と共に考え、語り、行おうとするところには、人の計算や知恵によっては決して得られない、
御国まで連なる永遠の平安が与えられます。その永遠の命に連なるものとして生きるのです。